僕は自分の目で見たものしか信じない。けど、この目で見たものはどんなに馬鹿げたものでも信じるよ。
──スナフキン。

皆さん、うさぎサブカル哲学へようこそ。
サブカル哲学第二弾は、前回好評だったという事で、再びこの人に登場してもらいましょう。そう、我らがスナフキンさんです!!旅する吟遊詩人は、どんな学びを今日私達に与えてくれるのでしょうか?楽しみですね。それでは、うさぎ哲学、サブカル編スタートです。

旅する吟遊詩人、スナフキンさんは言います。
僕は自分の目で見たものしか信じない。
けど、この目で見たものはどんなに馬鹿げたものでも信じるよ。
この世界において問いに対しての答え「真実」は必ず一つです。それ以上でもそれ以下でもありません。そしてそんな普遍的な答えを私達は真理と呼びます。ともすれば、それは百聞は一見にしかず、この目で見たものがその真実です。
ですが、それを以てして、この世界には一つの問いに対して複数の見解、答えがあるとスナフキンさんは言っているんです。
言葉にせず、不文律でそれを私達に語りかけます。
だから、それが人間なのさ。と。

人間というのはとても完全な生き物と呼べる存在ではありません。
一人一人が違う特徴、個性を持っていて、間違える事もあれば、出来ないことも多いです。共感する人同士が答えを共有することはあっても、全ての人類が共通の答えを持つことはとても難しいことです。
本来その答えが一つだったとしてもです。
それで良いのか、悪いのか、そう問われれば私は今はそれで良いと答えます。

例えば私が私の思う考えを発信している理由の一つにこの世界をハッピーにしたいという想いがあります。だから手探りですがこうして発信し続けていますし、それが今の私の正しいと思うことだからです。
でも、一つだけ加えさせてもらうなら。
そんな私の言葉で世界をハッピーに出来るなんて思っていないで、それでも私はそんな私の言葉で世界をハッピーにする事は出来ると信じていますです。いろいろと矛盾している発言になってしまってすみません。
ですので、次からこれについて簡単に説明しますね。

先程の私の発言、その真意は、私の発信するこの言葉そのものが世界のハッピーの答えになり得る事はなくても、この言葉が世界のハッピーを生む種、その「きっかけ」になり得ることは大いにあるということです。
勿論、私の言葉に共感してくれたら素直に嬉しいですし、そう出来るようになりたいとは常々思っています。ですが前述した通り、私達は人間です。その見解や答えは最早複数あってあたりまえなのです。
だから、無理に受け止めなくて良いし、そうして欲しいとも思わないです。その代わり、この言葉を「きっかけ」に自身の答えを導き出すお手伝いが出来たらなとは思っています。それがその人にとっての答えになるようにです。

その先には二つの答えの論破ではなく議論があり、その更に先には新しい私達の落とし処、答えが生まれます。
僕は自分の目で見たものしか信じない。
けど、この目で見たものはどんなに馬鹿げたものでも信じるよ。
スナフキンさんが言う通り、私達はこの目で見たものを信用します。それはそれが信用に値するからです。沢山の情報が溢れるようになったこの世界で、これから私達が意識しなければいけない事がこの自分の目で確かめるということなんですよね。
ですが、それが必ずしも私達はかたちあるものしか信用してはいけないということには繋がらないとも思うんです。寧ろそれはその逆で、私達はまだ見たことのないものをこの目で見に行かなければいけないということだと思うんです。
ともすれば、誰かの言葉に何かを感じて考えるという行為がその最初の一歩であり、それが私達の答えを一つにする唯一の方法で、真実に辿り着く手段なのかもしれません。私がスナフキンさんの言葉をきっかけに考えた、そんな風にです。
そのことを今日、旅する吟遊詩人、スナフキンさんは私達に教えてくれたのではないでしょうか。
誰かとわかり合う為に必要なのは、誰かに合わせる事じゃない。それじゃ何も生まれはしないさ、残念なことにね。──スナフキン風、兎禾の今日の哲学。
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