人間は、努力しているあいだは、迷うにきまっている。─希望を持ちたいなら、迷えよ。

うさぎ哲学

人間は、努力しているあいだは、迷うにきまっている。

──ゲーテ。

努力と迷いは隣り合わせであるという意味の言葉です。

皆さん、うさぎ哲学へようこそ。

うさぎ哲学、それはただの哲学ではありません。ここは名だたる哲学者や偉人達の残してくれた哲学や名言を基に、今の時代を生きるうさぎがその言葉を噛み砕き新たにアップデートして「使える哲学」を綴り呟く場所です。

今回の哲学は私達にとっての「努力」についてです。努力とは一体何か?何の為にするのか?しなければいけないことなのか?そんな疑問についての答えを今日はゲーテさんの言葉を紐解きながら考えてみようと思います。では、うさぎ哲学スタートです。

人間は、努力しているあいだは、迷うにきまっている。

私達は日々何かを思い、考え、傷つきながらも、立ち上がり生きています。それは一重に、やりたいことがあるからやらなければいけない事があるからです。

心を込めて、骨身に鞭打って、ただひたすらに前へと足を進めること。目の前にある壁、それは困難だったり、怠慢的自分だったりに立ち向かうこと。それを努力と言うのならそういう事なのかもしれません。

ですが本当にそうなのでしょうか?そう私は思うのです。ここで一つ皆さんに質問をさせてください。一緒に考えてみましょう。

皆さんにとって努力とは一体どんなものですか?


努力という言葉を私達が実感し口にする時、それはどんな時なのか、先ずはそれを考えます。それは耐える事だったり、我慢する事だったり、そこで見えて来たのは努力の前には必ず心の揺らぎ迷いがあるという事実でした。

例えば何かをしていて、今日だけはと思う自分がいるからそれを律したり。もうダメかもしれないと思う自分がいるからそれを耐えしのんだり。やらなければいけないと思うから辞めるのを我慢したりです。

そう思えばやはり努力とは何か瞬間的な困難に対して使う言葉だと言える気がします。つまり努力し続けるとは、その瞬間の繰り返し、積み重ねで出来た努力の結晶のことです。

ですが一方で、何か好きなことを楽しそうにひたすらにやっている人がいたとして。その人に迷いの色は微塵もないけれど、だったらそれは努力していないという事なのでしょうか?

答えは「そう」であって、「そうではない」だと私は思います。ことその本人にとってそれは努力ではないけれど、私からすればそれは努力ということです。要はそう自身が認識するかしないか、それだけの違いです。

でもそこに「違いがある」ということなんです。それが今回の努力を紐解くキーワード、鍵になるように思えました。ともすれば、努力とは人によって認識が違うもの。

同じ事でもそれは努力で、努力ではないのなら、そこにあるのはそう思うか思わないか、詰まるところそれは「出来る」か「出来ないか」の違いなのだと思います。出来る人にとってそれはあたりまえで、出来ない人にとってそれは努力ということです。

人間は、努力しているあいだは、迷うもの。

ともすれば努力の手前に心の迷いはあって然るべきものであり、迷うということはそれを不安に思う心の現れということだと言えると思います。

だから、何?

ではなく、だから迷いを生み出す心の揺らぎは、私達にとっての希望の「揺らぎ」なのかもしれないということです。

努力とは出来ないと思う迷いの心があるからこそ成立するものなら、それは「出来ない」を「出来る」に変えられる唯一の方法で、「不可能」さえも「可能」にする事の出来る「可能性」、だから「希望」です。

努力とは辛くてキツいイメージを持たれがちです。ですが、私達が本当に見なければいけないのはそんな努力そのものではなく、その先にある新しい自分

変わるのが人で、変わってしまうのが人間なのであれば。何かを思い、考え、正しきに迷い努力の出来る、そんな私達こそがその希望だということなのではないでしょうか。

出来る、出来ないじゃないんだ。私はそれをやりたいと思うからやっている。──兎禾。

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