たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植えるだろう。─希望のリンゴ、知っていますか?

うさぎ哲学
Portrait of Martin Luther religious philosopher

たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植えるだろう。

──マルティン・ルター。

たとえ絶望の中であっても希望を持って出来る事を精一杯行うという意味の言葉です。

皆さん、うさぎ哲学へようこそ。

うさぎ哲学、それはただの哲学ではありません。ここは名だたる哲学者や偉人達の残してくれた哲学や名言を基に、今の時代を生きるうさぎがその言葉を噛み砕き新たにアップデートして「使える哲学」を綴り呟く場所です。

今回の哲学はマルティン•ルターさんの唱える「希望」についてです。希望とは私達人間にとっての「始まりの光」であると共に、その隣りにはいつも「終わりの絶望」があるということだったんです。それでは今日も、うさぎ哲学スタートです。

Portrait of Martin Luther religious philosopher

たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植えるだろう。

例えば本当に明日世界が滅亡するとして、どれだけの人がルターさんと同じ行動を取る事が出来るでしょうか?私はそんな風に生きられたら素敵だなと思う一方で、そんなのやっぱり無理だと思ってしまいます。

明日終わる世界。

その事実を知った時、希望を持って行動する事なんて出来なくて、きっと世界の誰かの為にではなく、最も身近な人の為だけに私は行動することでしょう。それがとても局所的で愚かな行為と言うのなら、私は愚かですし、所詮その程度の一人の人間です。

ですが、この世界の哲学に解けない哲学はないというように。そうであるならば、私はこの答えを結び付けなければいけません。立ち向かい、辿り着けない答えを導き出さなければいけません。

その答えは当然「どんな絶望の中でも希望を持って行動する」でなければいけなく、私はそうして考える内にようやく辿り着いた一つの答えがあります。

それは──。
 
だからこの言葉は生きる為のものではなく死ぬ為にあるものではないかという解釈です。

未来を知る事が出来ないのがこの世の常ならば、私達人間はその終わりを前もって認識することは出来ません。もしかしたら明日不意に私の世界は滅亡してしまうかもしれないし、もしかしたらそれは明日では無く次の瞬きの瞬間かもしれません。

しかし、それは同時に終わりが常に隣り合わせにあるという証拠でもあり、その事実をもって私は「この世界は常に絶望的である」と捉えます。そしてその結果、この問いの答えはその逆が正解なのかもしれないと私は考えるようになりました。

たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植えるだろうではなく。今日私はリンゴの木を植えるだろう、たとえ明日世界が滅亡しようとも、です。

そうやって日々を生きて行く事。

それが唯一私が最後まで希望を捨てずに生きて行ける方法で、いつか来る終わりのその日の為に今に希望を残し生きて行ける方法です。

たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植えるだろう。

それは、だけどそれでも私は「希望のリンゴの木」を植えるではなく、だから私はいつ「世界が滅亡しても構わないということです。

ですので、終わりの時がいつかはわからなくても、終わりの迎え方なら知っていると言える生き方をする事こそが、私達がどんな時でも希望を持ち続ける方法だということなのでした。

今日が私の世界の終わる日で。今が私の生きる世界の瞬間だ。──兎禾。

コメント

タイトルとURLをコピーしました