くもりなき一つの月をもちながら浮世の雲に迷ひぬるかな。

うさぎ哲学

くもりなき一つの月をもちながら浮世の雲に迷ひぬるかな。

──一休。
 
私達の心は浮世に迷い虚ろぎ、そのもの本来の形を見失うという意味の言葉です。

皆さん、うさぎ哲学へようこそ。

うさぎ哲学、それはただの哲学ではありません。ここは名だたる哲学者や偉人達の残してくれた哲学や名言を基に、今の時代を生きるうさぎがその言葉を噛み砕き新たにアップデートして「使える哲学」を綴り呟く場所です。

今回の哲学は人生の「学び」についてです。人生において学びとは私達にとって必要不可欠なものである一方、私達からあるものを奪い去って行くものでした。ということで、今日はその事について一休さんの言葉を基に考えてみたいと思います。では、うさぎ哲学スタートです。

先ず始めに。

今回の一休さんの言葉を紐解く為に知っておくべき言葉があります。それは私にとっての哲学の答えとも言えるソクラテスさんの言葉、無知の知についてです。

無知の知というのは。

自分が無知であることを自覚できていない、または知っているような勘違いをしているよりは、同じ知らないでも自分が知らないと自覚している分だけ優れているという意味の言葉です。この哲学は私にとっても非常に特別な哲学ですので、詳しくはまた後で哲学したいと思っています。

例えば私達が生まれた時に何も知らないように。無知から始まる私達の人生は、その瞬間から学びの人生を歩むと言っても過言ではありません。だからこそ無知の知が必要であり、それこそが私達人間にとっての普遍的な答えでもあります。

そうであるならば、無知とは私達にとっての根元です。

その根からあらゆる事柄の知識の水を吸い上げるからこそ、芽は芽生え、その先で蕾となり、あなた色の花が花開きます。それはとても神秘的で魅力的なことである一方で、私達からある一つのものを奪い去りました

そしてそのことを一休さんは後述する一文に込め残します。

くもりなき一つの月をもちながら浮世の雲に迷ひぬるかな。

それを私なりに例えるなら──。

私達が生まれまだ小さく無知だった頃、その目には空にある月が映っていました。ですがそれから時が経ち、世間を知り、学をつけるにつれてその空には雲がかかるようになりました。それからというもの、私達はいつしかそのかたちを忘れ、そこに月があるということにも気づかなくなり、夜の帳の中を迷い歩くようになったのです、ということです。

だからその雲を晴らそうとか、無垢なる瞳でもう一度世界を見渡そうじゃないかとか、そういう事を言う気はさらさらありません。ここで言う空にかかる雲とはフィルターで、フィルターとは害を排除するものです。ともすればそれは私達が生きる上であって然るべきもの、無くしていけないものだと私は思っています

ですので、私が今回述べたいのは雲を晴らそうではなく。無知とは愚かな象徴である、が故に見えていたものがそこにはあったのだという事実です。無垢なるかたちをした最も真理に近いものを私達は見ていた筈なんです。

私達は生きる過程でその無垢を代償に学びを得ます。いつしか見えていた筈のかたちも、その見方さえも忘れ、最後には真理をそこにまた描き求めるようになります。私はそれがなんて愚かな行為であるのかと思うと共に。それはなんてとても人間的な行為だとも思うのです。

私達は日々暮らし生きる中で疑う事を覚えて行きます。

本当にそうなのか?

それは正しいことなのか?

裏側には何がある?

そんな風に自らの目に雲をかけ曇らせていきます。それは一重にそうしないと生きて行けないからで。それが私達人間という生き物が選んだ生き方だからです。

だけど、これだけはどうか忘れずに覚えておいてください。

かつての私達はとても無知で、とても無垢だった。

純粋な心を持って生まれて来た私達人間は、既にその事を知っていて。

その心は誰の胸の中にもあるのだということを。

無垢なるかたちを探し、ここに求め続けること。そんな「いつかの無垢」こそが哲学の行き着き、還る場所。──兎禾。

コメント

  1. ★Lakma★ より:

    人は生まれた瞬間から幸せを求める生き物

    だからこそ哲学が必要なのですね。

    • uka より:

      そうかもしれませんね。
      何が幸せで、何が真実なのか、それを知る壮大な旅、それが人生なのだと私もそう思います。
      そしてそれはかつて見ていた「いつかの無垢」を取り戻す旅と言っても過言ではないのかもしれません。
      大切なのは、ここに描き続けること。
      これからも一緒に哲学をし続けて行きましょうね。

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