我、神仏を尊びて、神仏を頼らず。
──宮本武蔵。
この世に自分を人として生み出してくれた神仏を尊びこそすれ。
この世でのことは必ず人である自分が為さなければならない。
だからこそ神仏に頼ることはないという意味の言葉です。

皆さん、うさぎ哲学へようこそ。
うさぎ哲学、それはただの哲学ではありません。ここは名だたる哲学者や偉人達の残してくれた哲学や名言を基に、今の時代を生きるうさぎがその言葉を噛み砕き新たにアップデートして「使える哲学」を綴り呟く場所です。
皆さんは、神仏を信じていますか?
この世界にはあらゆる神様が存在していますよね。そのことについて深く言及する気はありませんが、少なからずそこに信仰がある事で救われている人がいるのは事実です。今回はそんな神仏に対する「信仰」について私なりに解説したいと思います。それでは今日も、うさぎ哲学スタートです。

我、神仏を尊びて、神仏を頼らず。
宮本武蔵さんと言えば、有名なのは「五輪の書」ですよね。あらゆる戦いの場において活用出来る兵法が記された「地之巻」「水之巻」「火之巻」「風之巻」「空之巻」の全五巻から構成されているあの本です。
今の時代で言えば「バガボンド」でも宮本武蔵さんの生涯を追う事が出来ますね。
その生涯において数々の逸話、名言を残して来た宮本武蔵さんですが、その中においても今回取り上げた言葉は、私にとってとても大きな影響を与えてくれた一言でした。
それは、この言葉を知って私の考え方が変わったという意味ではなく、この言葉を知って私自身の考えに自信を持てたという意味からです。

ここで、突然のカミングアウトをします。
私は神仏マニアですが既存の神仏を全然信じていません。
信じていないけど大好きです。
いやいや、いきなりどうした?とは言わないで下さいね。
つまりここで何を言いたいのかというと、どうしても昔から神様や仏様について合点いかない事が一つだけあって、それが神様って全知全能なのに何で何か一つの分野に特化しているの?っていうとても稚拙な疑念です。
例えば信仰においてお金を要求しているシステムもわからないし、そこに役職という優劣があるのも理解出来ないみたいな本当に素朴な疑問からそれは始まりました。

今となれば少しはそれらについても理解も深まり、ある程度の言語化は出来る様になったにしても、納得出来る答えに巡り会った事は一度もありません。
そんな私の思う神仏像というのが「最高の創作物」であり、「人間の心の顕れ」というものです。ですので、そういう意味ではその物語を読んだり、神社やお寺巡りをしたりしながら想像を膨らませています。
きっと、この時はこういう事を人は思って神仏をそこに描いたんだろう?と、その時の時代背景を知り、そこに居る人達を思い浮かべ「学び」を得る。それは私にとってどこか「哲学」にも似ているようで、だから神仏は信じていないけど、大好きなんです。

この世界に神様はいない。
祈る事は出来ても、実際に神様が全てをやってくれる訳ではありません。何もしない人の為に動いてくれる程神様達も暇じゃないらしいです。
でも、それが現実です。
それを無慈悲と言えば無慈悲ですし、言い換えればそれは自分で何とか出来るでもあります。だから、祈るのが先ではなく、祈るのは最後。先ず私達がやるべき事は、自分自身で道を切り開く為に実現出来る方法を考え行動しなければいけません。
何も一度で成功したり、戦いに勝つ必要はありません。勿論、やるからには勝つ、それはあたりまえに思う事という前提で、敢えてそれを今回言葉にするのなら、それは勝つ戦い方というよりは死なない戦い方を覚えるという事です。

何かをかたちにするのも、何かを決めるのも、全ては自分自身です。
神様でも、仏様でも、他の誰かでもありません。
負けても死ななければ必ず次があります。ここで言う死ぬというのは「諦める」ということです。繰り返し繰り返し戦うその中で、虎視眈々と獲物を見据える。然るべきその時を見据えながら、その手に持つ武器を増やし、腕を磨きながらです。
何かを成す為の具体的な行動を取るのはあくまで私たち人間の領域の事柄であり、その後の結果については天(神仏)の領域、神のみぞ知る。と、そういうことです。
ですので、神仏に願い、祈る、ということは、自分自身の心と向き合う行為、ただそれだけの事だったんです。
そして、そこまでやって必死に立ち向かう人の元にきっと目には見えない奇跡は訪れて、それは神様からの贈り物なんだと私は思います。
神様は私の内に宿る「奇跡」の事でした。──兎禾。
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